仙北への道 名称と道筋 天保八年(1837)
すなわち、横手から下嵐江まで前後六日程度要したわけで如何に手倉越が難所であったかを表す貴重な記録であり、それでも越えなければならない秋田領、仙台領間の交通の要路であったわけである。文政、天保頃の「国郡古図撰集」に手倉が「言語道断」村の地名になっているのはどうしたわけであろう。手倉越が言語道断越であろうか。
久保田より四泊で昼頃手倉について護送の藩士は、一泊或いは二泊の上逆順で久保田へ帰った。囚人は夕食後月代や顔を剃って髪を結び、風呂をつかわせたとある。御国払いになる罪とは有夫姦通、ばくち、常習悪質者、窃盗、放火、肝煎役の公課横領等であり斬首、はりつけの罪人に次ぐ罪人であった。 |