兎とカマドの話
これも湯ノ沢の松の木にかかわる話であるが「笑話」のたぐいである。
昔、二人の物知りがおった。その一人が「あの松の木に兎の巣がある」といったら他の一人は「そんな馬鹿げた話はない」と反論。もし事実ならば「俺のカマド(全財産)を全部やる」と言ったという。さて、二人でその木へ行ってみたら、兎の巣などはなく、あったのは「鵜」と「鷺」の巣(ウサギ=兎)があったと。他の一人はくやしがり、カマドを取られるのは、もったいないといろいろ思案の末、鎌と砥石をやったという。
湯ノ沢のお松と管生田のお玉
湯ノ沢は昔、本村の管轄であった。湯ノ沢の松は国道筋、バイパスの左手、もとの湯ノ沢分校の前にあった。樹齢三〇〇年の傘松である。昔この松が一時、葉が枯れ落ちたため村の衆は、なぜだろうと話あったところへ、上方から「湯ノ沢村、お松」宛に手紙が届いたので村の衆は、湯ノ沢で伊勢参りに行った人はいないし誰だろうと話合っていたら俄に、今まで枯れかかっていた松の葉が段々と青くなり、もと通りのみどりの松にかえったので、この松は上方参りに行ったのだといい伝えられ現在にいたっている。
一方、それと時を同じくして隣の集落、田子内字菅生田には「お玉」宛に、上方から礼状が届いた。菅生田村衆も一同に会し、誰であろうと話題になった。やがて国道筋の佐々木伊三郎屋敷内の畑の隅に大きい丸い石が現われたのでこの石は、どこからどうして現われたのであろうかと不思議に思っておったところ、隣の湯ノ沢の「お松」の話を聞いたので「菅生田のお玉の上方参りの石であった」といい伝えに残っている。そこで当時の伊三郎翁は大豪力で現在の場所に投げたといわれており、いまもそのままところにあるという。
田子内と椿
田子内に鎮座する天神社の御神体は、椿の木で彫刻されているので、椿を粗末にしてはならないといわれている。田子内の区域には椿がなく、下田や蛭川その他の地域には自生している。また一説では道真公が「梅の木」を愛てのあまり、椿を嫌ったともいう。天神様の御紋は梅鉢である。東成瀬小学校の校章も梅鉢に東の字が入っている。
皿かぞえの桂の木
昔、平良部落の下(西)のはずれの桂の木の下に、夜になるとザラザラと皿を数えるような音がして、村人は皿数えと呼んでいました。子供は夜には絶対に桂の木の前を通りませんでした。今でも、太い桂の木が残っていますが、子供たちは、昔のようには恐がらなくなりました。
(平良・佐藤ナツ氏 七十二才)
蛭川の傘松
古い時代、亀爺という人が盆栽の松を惜しみながらも、道端に植えた松が、後に知られた「蛭川の傘松」であったが、近年道路拡幅工事のため伐られたことは、かえすがえすも残念なことである。
桶清水
田子内字桶清水のことで、近くに「館」があり、そのころ、兵士たちが桶を持参してこの地に水を汲みに来たのでこの名がある。
夜泣き石
地域では「去りこ石」と呼んでいる。肴沢から岩井川へ行く左手にあり、俗称「桂へぐり」の東の山根にある大きな岩石で昔は夜な夜なその石の下で乳のみ児の泣き声がしたという。夜泣きをする子ど もの母親は、この夜泣き石に願を掛ければ、夜泣きがやむと信じ参拝したものだったという。昔はいつも御初穂があがっていた。
「去りこ石」といわれる理由は、ここ(正式地名は岩井川字空堀)の巨大な岩石が、何百年前の地震かは不明であるが山麓の道路に落ちた。当時の人々が通るのに大変邪魔になっていたが、どうすることもできなかった。たまたま諸国巡行の折に通りかかった弘法大師が経文を唱え「しゃれ」と喝を入れたところ、巨大な立て岩石は転んで現在の位置へおさまり、横たえて猫の背のようになった。
猿橋の由来
肴沢に猿橋といって景色のよいところがある。昔は猿がこの川を越すとき、木に登って手をつなぎあい、ぶらんぶらんと振ってその反動で向岸にジャンプして越えたので「猿橋」と名付けたといわれている。
猿橋の渕と鮭の大助
字肴沢と猿橋のとの間、成瀬川の両岸の岸壁が押し迫ったところに大昔は木橋、その後らんかん橋、吊り橋があった。現在は永久橋となっている。橋の北たもとに枝ぶりのいい老松が垂れ下り、橋下の渕にのぞんでおり、本村の名勝地であった。(現在は枯れている)昔、この渕に「鮭の大助」という主がいた。ある人が渕の主といわれる「鮭の大助」を釣ろうとし、工夫をこらしてやっと釣りあげたものの、 手では持てないので、扉に乗せてかついだら、大助の尻尾は扉からはみ出したという。その大助が崇っていうには「俺を釣り上げたからには、ただではおかない、村中を不治の病いにしてやる、思い知れ」とすごまれた。村人は恐れおののいて「水神として祀るからゆるしてくれ」とたのんで村中に小さいお堂を建立し、大助を釣りあげた大鈎をお堂の下に埋めたという。ここの集落に小さな祠があり「水神様」と呼び、正月の初詣には必ず立寄って参拝する。
小次郎沼の伝説
応永二一年(一四一四)鎌倉北條時行の遺臣、高階大次郎通治が一族郎党七〇余人と共に出羽の飛島より来たりて本村入道森の馬場に住む。同二四年(一四一七)の春、椿台に移住するまで前後四年、この地にあり。そのころのことなり。大次郎の弟、小次郎通吉、釣を好み「沼の又」の沼に日々行きて釣糸を垂る。しかも獲るところの岩魚の数毎日相同じ。小次郎の妻あやしみて或る日、ひそかに夫のあとに従い行き、沼のほとりなる木陰に身を寄せ見ありしに、夫小次郎は妙齢の美女とともに筏に乗りて釣りするさま、いかにも睦ましげなり。妻これを見るなり嫉妬の情むらむらと起こり、思はず大声をあげて怒号す。小次郎それと気づき美女と相抱いて湖中に投じ、再び浮かばず。里人「これ沼の主ならん」といえり。仍而この沼を尓来「小次郎沼」と名付けたり。その後、天正のころ(一五七三〜一五九一)増田城主土肥次郎、家来をしてこの沼の水を沢へ切り落し、岩魚を捕えんとせしに、水と共に流れくだる魚、悉く小蛇と化せりとなん。 (因みに小次郎沼は、現在水はなく、曽っての湖底や周囲は樹木や雑草が茂り、昔の面影もない。数年前、沼の縁に当る場所が県道水沢・十文字線(現国道)の路線として掘さくされた時、路傍の断面に泥炭層が露出しており昔湖底だったことがうなずかれる)
八幡太郎、駒つなぎの桧
目通り五尋(一尋は大人が両手を広げた長さをいう)もある老樹で樹齢干年はくだらないといわれた。田圃の中に一〇坪余りの宮地が塚状になっているところに生えていた。村人は昔から「八幡太郎駒つなぎの桧」と称し、神木として崇め守ってきた。その周辺を「桧下」とか「八幡下」といって字名になっている。大昔はその付近に墓地でもあったのか、副葬品らしいものと、田の中から「板碑」が一基出土した。碑高は三尺ほどの安山岩の自然石で、上部の梵字は「釈迦三尊」といわれる。刻字は磨滅して読めないが「孝子」の文字は判読できた。その桧は古木のため幹が空洞になってムク鳥が巣をかけていたが、終戦の年の台風で倒れてしまった。相生の山桜も同時に倒れ枯れてしまった。何百年来、旅人の目標としてなつかしみ親しまれた名木も、このようにあっけなく倒れてしまったことは惜しい限りである。八幡太郎が礼銭芦毛の駒をつないだという故事により、手倉では芦毛の馬を飼わないならわしがあった。駒つなぎの桧は御番所の近くで、東の山腹には菊地家の氏神(後に村社となった)「八幡神社」がある。
手倉
慶長7年(1602)佐竹義宣公が秋田へ遷封されるや、要所要所に関所および御番所を設けた。
この地に御番所が置かれたのは、手倉が中山を境とし仙台領と接しているためであり、 御堺に御番所が設置されたのである。
設置の年代については、当地に文献が見あたらないが羽陰史略、1681年(天和元 年)の条に「領内15ケ所に設置された。」とある。
創設当時は手倉上村にあった。ご番人十右衛門、病死後、後役に菅原四郎左衛門が仰せつけられるに及んで番舎を自宅前(久保)に新しく普請し、そこで数代勤め、明治2年(1869)まで続いた。
なお、昭和7年村道が県道として改修の際、御番所跡が道路敷地となり、番舎、御札場、御門跡もいまは昔の面影もない。
昼間は関門を開き、夜間はこれを閉じ、旅人の出切手、宿泊帳携帯の有無などを調べた。もし、無届けで通るものがあれば関所破りとして斬罪に処された。
弁慶の唐戸石
別には「力石」ともいう。昔、弁慶が当地へ廻遊中、高畑山から大長嶺へ蹴飛ばした石といわれている。大きさは五、六尺から七尺ぐらいで、周囲に加工した跡の全々ないところに面白さがある。暫くして十郎兵エ、権左エ門の二人が「石の中にあるといわれる鎧」を取り出そうとタガネを入れた。ところが一天俄かにかき曇り、遂に割ることができないで帰宅した。その後、二人は発熱し遂に聾になった、なお、七月七日は中の「鎧」の虫干しをするという。
五郎兵衛家の水神様
田子内集落の草分けに五左エ門という石切りを職業にしている人がいて、大長根の山の上の大石に矢を打ち込んで割ろうとしたら、その石が突然動き出し「ゴロゴロ五左エ門、割れるか五左エ門」という声がしたので、びっくりして逃げ帰ったとのことで、今でもその石に矢のあとがついたまま残っているといわれている。その五左エ門が仙台から田子内に来て住みついた頃は、田子内にたった三軒の家しかなく、その後に五左エ門の家から今の五郎兵衛の家が分家になったそうで、たしか四軒か五軒目にできた家とのこと。その後にガッケの水神様が祀られ、定かではないが今から凡そ三六〇〜七〇年以上前のことという。
昔は道路わき近くに祠と休み場所があり、道行く人たちが水を飲みに寄っては休んでいったとのことである。内神様のある家では四足二足をたべられないといって肉類(鳥獣)は絶対に食べなかったという。ところが肉をたべた人たちがその神域の休み場をよごしたりして困るので、上ミの方の現在の場所に祀ったとのことである。その石垣の下から今も昔と変わらずコンコンと清水が湧き出ている。水道等のなかった当時は、村人たちが水汲みでにぎわい、雨降りともなると他の水は濁って飲まれなかったがここの水はにごることがなかった。それ故に清水をわれ先に押合って汲んだといわれている。ある時、村内の氏神を一カ所に合併して祀ることに相談が決り、その家にも同意するようにすすめられたが、先々代のおじいさんが自分の家の内神様だからと合併しないで現在に至っているという。
大昔は、清水のすぐそばに大きな池があり、鯉を沢山飼っていた。ある時、いたずらにその鯉を盗んで夜、裏のガッケ山でみんなでたべたら、その人たちはその後に、いつの間にか生活に困り遂にどこかへ働きにいかなければならなくなり、働きに行ったとの昔話も残っている。
この内神様は「秋葉様」という「火の神様」と「竜神様」がオシズ様として祀られている。オシズ様は大変タバコが嫌いとのことで、昔、この近くでタバコ栽培をしたこともあったが、近所に病人が出たり、あまりよいことがなかったのでそれ以来、一切タバコは植えなくなったとの言い伝えがある。
この水神様は今でも水飲み場であり、また憩いの場でもあり、あるいは果物を冷やしたり、野菜を洗ったり、飲物を冷やしたりして村人たちは、とても大事にしてくれている。祭日は毎年旧暦の四月十五日。(佐々木キヨノ 年輪より 田子内住)
*秋葉山は静岡県周智郡春野町にある。天竜川の東方にある赤石山系に属する山である。山上近くにある秋葉寺内に祀られている三尺坊は「火防鎮護の神」として庶民の厚い信仰を受けている。(日本石仏事典より)
真内渕太郎
東成瀬小学校のうしろにある渕で、以前は小学校の水泳場であった。ここに真内渕太郎という河童の主がおった。ある時北方(地名)の徳十郎が馬を洗いに川へいったところ、馬の尾に河童がつかまって来て、徳十郎の家の馬洗い桶の下に隠れておったが、そのうち見つかってしまった。河童が放免される時、真人(現増田町)より上流に上ってくることを禁じられた。その後は河童にとられること、つまり「川流れ」(溺死)がなくなったという。
蛭川
昔、徳川の役人(秋田の役人と思うが)が、ここを通った時、ちょうど昼だったので「昼川」と名付けられたが、明治九年(一八七六)の地租改正の時、あやまって「蛭川」としたという。他町村で「昼川」の地名がある。
つるべ井戸と田子内
天神社の祭神菅原道真公は、藤原時平の「ざん言」(事実をいつわって悪くいう)により、九州太宰府に配流されたが、時平を呪い雷神となって時平を襲った。時平は井戸に隠れて難を避けた。道真公の無念を偲び、田子内では昔から井戸を掘らなかったという。(現在は井戸も水道もある)










