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〒019-0803
秋田県雄勝郡東成瀬村椿川字堤31-2
まるごと自然館
TEL:0182-47-2362
東成瀬の伝説

首もげ地蔵
首もげ地蔵は、細沼端の刑場の地蔵様であった。罪人が首を落とされる前に念仏を唱えた。
 ある時、番所を破って極刑となり地蔵様の前に座して念仏を唱えた。関所役人が切ったのは地蔵様の首だった。首は細沼の中に埋もれた。後日明治2年関所の廃止となり、地蔵様も現在地に。
細沼の位置は、柴田市郎氏宅の裏山側か。道しるべ(右おく村道左せんだい道)とある。

オワリ沼
この沼のそばに昔、「オワリ」という女の人が住んでいたので「オワリ沼」という。沼の中に鉄製品を投げ入れると、底の方で、ドーンドーンという音が聞こえるといわれている。

大柳沼
大柳近くの山の上に「上沼」と「下沼」があり、その「下沼」の伝説に、この沼の主は大きなベコ(牛)である。誰かが沼に来ていたずらをすると、煙がたちのぼりそれと共にベコが出て来て、その人を驚かすという。

弘法の祠
 御堂の中に高さ約1メートルの石の像がある。うしろに「寛延二巳八月廿五日(17 49)水沢亀屋五左衛門、仙北関口村石工五兵衛」と彫られている。亀屋五左衛門は 最も古い水沢商人群の一人であり、出身は秋田ともいわれている。後裔は「亀梨」と いう屋号で今でも書籍、文具、楽器などを扱う商人とのことである。  祠は、今は手倉椿台の有志のかたがたによって守られている。 五月一五日は「弘法の祠」の祭典である。

まが坂
 曲坂の名称についてははっきりしないが、旧道のときは、大きくカーブしておったのでは。今歩いてみると、鳥居をくぐった後、ぐるーと回ってお園の越所に向かっている。鳥居については、前記鈴木さんはその資料に「弘法神社鳥居」と記している。こ の鳥居をくぐると、その後は弘法神社の参道となることになる。
 弘法神社=弘法の祠

天江の鹿島様
明治のはじめ、戊辰戦争の時、天江周辺の集落は一の関藩の兵士によって殆どが焼かれている。しかし天江だけは奇跡的にその難をまぬがれた。天江の「鹿島様」から「楢の木」(現高橋伊勢治)の家の氏神様までは焼けなかったという。当時、大柳と天江の共同墓地の上に、子どもが大砲をかかえて、立っていたからと伝えられている。別にはこの「鹿島様」があらわれ守ってくれたともいわれている。

どんこ坂
どん子は今より百数十年前、本村椿台の六郎兵エに生れた天性の麗人で「椿台小町」の名があり、謡に唄われ遠近にもその名を知られた。村祭りの日には他村からも若者が集ってきた。されば縁談も網の目から手の出るほどであった。「せめて一ト夜の仮寝にも」とひそかに胸を焦がす若者も数多かった。両親も愛娘のために良き縁談をと思う心は世間並み以上であったことも想像されるが、山村育ちのこととて帯に短かく、たすきに長しの喩え、両親はかれこれと娘を片づけないうちに、大切な箱入り娘に虫がついてはと心配のあまり、親類の間柄なる同村菅の台に嫁がせることに決めたのであった。
 玉のこしにも乗り得べき器量をもちながら、何とて草深き奥の村などに嫁るものぞと、口さがなき村人たちは陰でひそひそと、うわさしあったのも無理ないこと。いよいよ黄道吉日を選んで輿入の日ともなれば、村人たちは老いも若きも、どん子の晴れ姿を垣間見んものと、門あたりに人垣をつくった。そしてみな目頭をうるませて惜しみあった。両親もこれまで幾年、蝶よ花よと育ててきたのに、娘の気の進まない縁談を親類への義理で無理に嫁るのだら、いざともなれば、割り切れない心残りもあったであろう。斯くして生きながらのとむらいにも似たる輿入となったのである。どん子の姿の見えなくなるまで、嫁見の村人たちは、つま立ちして見送るのであった。
 吐息をしながら各々わが家へと帰っていった。どん子の去ったあとの村は急に灯の消えたような淋しさとなった。草刈る鎌の手をやすめて、ぼんやりと物思いに沈む若者も出るといった始末。どん子の夫たるべき人は顔や姿も決して優れた男ではないうえ、教養もなく一見して粗野にみえた。強いていえば家に自給自足の資産がある程度だった。
 楽しかるべき新婚も、どん子には眩滅を感ずる日夜の連続でしかなかった。どん子には前から想思の仲の若者が一人おった。村役を勤めている人の息子がその人である。眉目人に優れ村役を勤める父を持つ彼は、いわゆるインテリ層の家庭に育ち、若い女性からは他の若者よりも垢ぬけして見えたことであろう。
 况んや幼馴みであり年ごろになるとともに親近感が思慕にかわり、恋愛へとすすんだのも自然のなりゆきであろう。うすうすそのことに気づいた夫は、嫉妬のあまり、始終どん子を疑い、あてこすり、苦しめ、果てには屡々手荒な振るまいがあり、どん子はその苦しみに堪えかねて、実家へ逃げ帰ったのは幾度か。つりあいのとれざるこの縁組は悲劇のほかの何ものでもなかった。
 うつろの体は夫のもの、魂は愛人の胸に抱かれる夫婦というものは、世間にないといい得ようか。ある日、山の畑仕事に行った時、夫は執拗にどん子をさいなみ、果ては狂暴の振まいさえあったので、どん子はとうとう二里の道を里方へ逃げ帰ったのである。
 問わでもわかる娘の事情、母親は不びんと思ったが、後難を恐れて娘をさとし、無理に婚家へ帰してやった。高いしきいを踏むこと幾度か、心なしか影の薄く思わるる娘のいじらしい後姿を見送った母親は、あふれる涙をおさえかね、そして親の一存で嫁った娘をいじらしくも不びんでならなかった。
 どん子は泣く泣く婚家へと帰り行くのであった。初夏の微風はやわらかに頬をなで、畑蒔蝉や閑古鳥の啼く声もいとど感傷をそそるのであった。前に三歩、後に二歩とあゆみは遅々、思いは乱れてあふるるは涙と吐息。歩んではたたずみ、たたずんでは歩み、ようよう暮方近く草の台へたどり着いた。谷川に架けたおさご橋に足をかけ、ふと水にうつった自分の姿を見入ったどん子の胸中はいかばかりか。このおさご橋を渡り、あの坂道を登れば再びあのいん惨な生活が続くかと思えば足は重く、胸も塞がる思いである。
 今にも激怒した夫はヤブ陰から突如あらわれ、髪をつかんで引き倒し、ぶち、ふみ、なぐるの狂暴を振るうのではあるまいかと思うと身の毛がよだち、ふるえる思いである。お不動様の小さなお堂が木の間から見える。足は思わずフラフラと杉林の中へ誘われるように向く。枯枝をふみ折る自分の足音をはばかるように、人目の届かぬ、とある木の根元に腰をおろした。いろいろ思案に沈むうちに初夏の永い日も暮れて夜気がひしひしと身にせまる。狂暴な夫の顔と愛人の顔が交々眼の底に去来する。「ああ佳人は遂に薄命であった」どん子は、おもむろに横櫛をとって、おくれ毛をなでながら眼をつぶった。そして静かにしごきを解いて、身づくろいを正してから、しごきを木の枝にかけた。両親、兄弟、幼な友だち等々の顔が走馬燈のように、まぶたに浮かんでくる。
どん子は淋しく、かすかにえくぼをつくった。思えば夢多い、そして短かい命であった。それから数刻の後には冷たいむくろとなった。斯くして悲恋の清算を遂げたのである。母となる日もなきままに思いつめたる若い女性の一念。谷川のせせらぎの音は昔のまま、うらむが如く、咽ぶが如く月移り年経つこと一百余年。年々歳々粟蒔くころともなれば、畑蒔蝉、閑古鳥、時鳥の声にも今の里人の哀傷をそそりつつある。*これは古老から聞いた話であり、更に六郎兵エの隣家、長九郎のタン嫗さんから聞いたものである。ドン子は今から、六、七代昔の人である。伝説の範疇に入らないと思うが、ついでに書き添えておく。当時はドン子節というのが遠近に流行ったものだったというが、今は歌詞も節も残っていない。(菊地慶治)