
おいち
桧山台の長右エ門の娘に「おいち」という娘がおった。秋祈祷に廻ってきた八面(現稲川町)の法院様が、春までそこに泊っていて、おいちに手習いや絵を教えた。当時の女性として絵をかくなどは珍しかった。婿もとらず嫁にもならないうちに、仙台領岩谷堂から廻って来た「からくりまし」に、ほれて欠落ちした。夫は木挽となり早坂(現稲川町)に落着き、おいちもそこでなくなった。子どもはなかったという。
姪川の高橋久治宅で「おいち」の作というご祝儀用に使うめでたい図柄の六曲一双の屏風二双を所蔵している。
そのほか、絵や習作模写などどこかにのこっているものと思われる。
杉の又の神杉(姥杉)
昔、桧山台の奥地、北の俣の内、杉の又に大杉あり。里人呼んで神木となす。仙台の殿様これを伝え聞き、船の帆柱にせんと思いたち、数多の人足をさし向けてこれを伐り出さしめんとす。杉の生えたる箇所は峰をへだてて出羽、奥州の境に近し。
人足等、斧を振って杉の根元を切らんとするに、周り数尋に亘る大杉の切口より血流れ出て、あまつさえ昼間切りくずせるところの木端は夜悉く元に返りて附着し、数日を費やせども伐り倒すこと能わず。人足の一人いわく「木端は悉く焚くに如かず、然らば附着するとこなく容易に伐り倒し得べし」と。衆、皆手を打って同ず。斯くして数日の後、かろうじて此神木を伐り倒すことを得たり。よって大綱をもってこれを峰に引き上げんとし、数百人力をそろえて引けども、件の巨木微動だもせず。よって更に人数を増し辛じて一ト坂引き上げ、もう一息というところに至り、先ず一服と一同打ち喜びその場に休息して酒を呑み酔いて踊る。そこを「踊り場」という。しかもこの歓喜の最中に件の帆柱材はメリメリと大音響をたつると思う間もなく、地響きを打って反転し、あわやという間に多数の人足共はその下敷きとなり無惨な最期を遂げたりとなん。帆柱のことは神罰を恐れてそれきり沙汰止みとなり、この帆柱材はその踊り場に横たわりしまま、春風秋雨幾百年巨体は朽ち、葉積み土かぶさりて今も土手状をなしているとかや。その親杉のあとには、今も幾本かの曾孫杉が群がり生えているという。
赤滝神社(縁記写)
出羽国雄平二郡の作神、赤滝神社の由来を尋ね奉るに、頃は承応元年(一六五二)壬辰年出羽城主岩崎兵庫守と申し、僅か二万八千石を領し栄耀と在します。彼の兵庫守殿一人の娘持たれしに、彼の娘生つき、きりょう人に勝れ、世に稀なる女なり。時に兵庫守殿居館より申さんに、西南は広大な地にして東北は大川居館の麓を廻り、末は男茂野川となる。然るにこの川に栄渕という渕居館の下にありける。彼の渕には昔より大蛇棲みて多年也。兵庫守殿常に娘に教えて曰く「汝娘親のいうことを能く聞け、武士の娘たる者は何事もよく覚ゆべし。若し不覚の者たらば此居館の下なる栄渕の主に呉れてやるぞ」とたわむれに申されける。此姫君幼少の頃より琵琶を好まれ、夜昼となく御けい古なされ給うに、不思議や塀の外に笛の遠音、姫の琵琶に拍子を合わせける。
彼の笛の遠音は次第に近づくより大手の方を見給えば、年の頃二八とも覚しき若侍、深編笠を冠り、表門の棟にのぼり笛を持ちて忽然と見え給う。兵庫守殿それを見るより我臣主計之助を呼び「是喃、主計只今大手の方を見れば、年二八とおぼしき若侍一人、大手門の棟に上り我娘の琵琶に笛の拍子を合わせて吹かれしに、何方の御仁にてや候わん。此方へ入らせよ」との仰おせなり。主計之助畏り候と彼の侍に此由を斯様しかじかと告ぐれば、若侍は姫と共に奥の座敷に入らせ給う。
その日最早暮ぬれば彼の若侍は何処ともなく立ち去りにけり。然るに爰に同国川連に小野寺加津羅之輔義一と申し、僅か一万五千石を領し居住しけるに、彼の義一が先祖を尋ぬるに出羽の住人、橘右近守最上義光公の臣に在します。
岩崎兵庫守殿の姫君今は一六の年となりければ、義一殿と縁談ととのい黄道吉日を選びて日取りをなされたり。さてもその日となりぬれば、附侍には遠藤逸八郎、川中佐中其外大勢を具し、御籠のお方には鈴木多中その外、小姓、脇御供女郎四〜五人を伴いて美々しく出でにけり。
さるに此の日、晴天俄に曇り魔風吹き来たり震動電光雷鳴物凄く、雨しきりに降り如何にも危うき次第也。なれ共、御供の面々御籠大事と守れども魔風雷鳴に恐れ、如何にせんとお籠のかたわらに打伏し居たりけるに、何かは知らずお籠のほとりにて怪しき物音して淋しさ、恐しさ、たとうるに物なく、御供の衆皆散りぢりになりにけり。しばらくありて立寄りみれば、あな不思議やお籠の中なる姫君は何者かにさらわれ、行方知れずになりにけるこそ悲しけれ。
さてもその後、兵庫守殿我が臣主計之助に向い申す様「是喃、主計我姫の行方未だに知れざるを誰ありて尋ねんとする者なし。如何にせん」と問えば主計之助尤もの至り畏り候とて草々仕度を調え、先づ館山に登りて陽気うかがい見るに彼の栄渕には霧かかり川の鳴瀬も常とは変りて聞こゆるに、立寄りて聞けば何かは人間のもの言う音なるより、主計之助思うよう川の底にてものいういわれなし。これわが心の迷いなるか。はたまた狐狸の仕業にやと心を鎮めて案じけるが、ややありて腰なる山刀を以って川岸の柴を切り払いてそれを見んとしたりけるに、彼の山刀手をすべりて渕の中へと沈みいりけり。主計之助これを取りあげんと渕の中へ飛び入るに、不思議や大渕の底には四角四面の座敷あり。
その真中に姫君様は二十尋にも余るかと思わるる大蛇のため、三重に巻かれ忽然としておあしける。大蛇は姫の膝に頭をもたせ紅の舌を吐きて眠れり。主計これを見るなりアッと魂消え、逃げんとするに体の自由きかず。ややありて主計之助姫君に向いて申すよう「これ喃、姫君様われここに来たりしは余の儀に非ず、姫君の行方をさぐらんがためなり。国なる殿様御母上様のお歎げき見るに忍びず、早々本国へお戻り遊ばせるよう」と申し上げるに、姫君やがて口をひらき、「珍しや主計、汝のいうこと尤もなり。しかしながら妾は人にして人に非ず、変化の身にて古里娑婆世界に帰りて父母にあうことも叶わじ、僞りと思はばそれ斯くの如し」と見る間に奥の一ト間に入り、やがて現われたるは姫の化身二十尋にも余る白蛇。
主計驚きのあまり声さえい出ず、ややありて主計言葉をあらためて申すよう「これ喃、姫君様斯くなる上は詮もなし、何卒せめてもう一度、元の姿となりて、この主計に御遺言なりと給へかし」と言えば、白蛇は再び元の姿となりて現われ「これ主計、今は何をか申さん、我再び娑婆世界へ帰ることも叶わじ、これなる十二単衣の片袖と櫛、こうがい、この三つの品をばかたみとしてつかわすほどに、古里に持ち帰り父母に届けよ、わが三熱の苦しみを消さんがため館の下なる栄渕の岩窟の上に水神の祠をば建て、此の世のあらん限り毎月朔日、十五日、二十八日には祈誓をなし給えや。また義一殿には縁合の御慈悲をもって、いずくの名に候とも菩提のため一寺を建て牌子を納め、普門品を読誦(声を出して唱える)し給へ、頼母々々」とばかりに涙ながらに申されける。
主計之助、夢より覚めたる如くかたみの品をもて渕より浮かび上り、主君御夫妻へ斯様しかじかと告げ奉るに兵庫守共々涙にかきくれ給うこともことわりなれ。やがて兵庫守殿には裟婆の名「能恵姫」が三熱の苦しみを消さんがため、居館の頂上に一宇の堂を建て「栄渕水神」として崇め奉る。また義一殿も前世の因果とあきらめ給い、川連村に姫が菩提のため一寺を建立なされけり。寺の名を我宗山龍泉寺と申し、姫の法名を「天顔院白龍妙容大姉」と申し奉る。
命日は霜月(十一月)初丑の日にて水神社では七月一六日、田楽舞にて御祭礼を行い奉る。かたみの品々と姫の牌子は龍泉寺に納め奉るとなん。
しかるに爰に隣村大倉村に金山ありてたえずギラを流さるるため栄渕の主は堪え難く、棲家を尋ねて稲庭川をさかのぼり、小安の不動滝に至りしに此処には以前より主あれば棲むこと叶はず、引き返して水清き成瀬川をさかのぼりて仁郷沢赤滝の渕に辿り着き、此処を永住の棲家と定め能恵姫とともに、渕の底なる岩屋の奥深く鎮まり給う。その後里人、滝の上に一宇の堂を建て、赤滝大明神と崇め奉る。六月朔日、九月「中の節句」を祭礼日と定め給う。
(因みに、かんばつの年は遠近より雨乞として参詣する者多く、霊験殊のほかあらたかなりという。明治の中葉までの別当は桧山台の八兵エなりしが、今は人かわれり。主は鉄を忌むといれり。また参詣者祈願の時、ひねり初穂やお供えの餅を渕へ投ずるに、御受納の時は沈み、御受納なきときは浮かびて流れると、昔は信ぜられたりという。
また、能恵姫の不慮の遭難について異説もあれど、神威を冒どくするおそれあれば、ここには省くこととせり。)昭和一四、一五(一九三九〜一九四〇)までは滝や渕に老木が生えふさがりありしが、営林署にて事業所開設後、樹木の大方は伐採せられ、神秘幽邃のべールがはずされ、里人から惜しまれている。
ここの水は褐鉄鉱を含む水のため石や岩が赤褐色を帯び、谷川も滝も渕も赤色に見えるため「赤川・赤滝」の名がある。