東成瀬の伝説

東成瀬の伝説

 

兎とカマドの話

これも湯ノ沢の松の木にかかわる話であるが「笑話」のたぐいである。
昔、二人の物知りがおった。その一人が「あの松の木に兎の巣がある」といったら他の一人は「そんな馬鹿げた話はない」と反論。もし事実ならば「俺のカマド(全財産)を全部やる」と言ったという。さて、二人でその木へ行ってみたら、兎の巣などはなく、あったのは「鵜」と「鷺」の巣(ウサギ=兎)があったと。他の一人はくやしがり、カマドを取られるのは、もったいないといろいろ思案の末、鎌と砥石をやったという。

湯ノ沢のお松と管生田のお玉

湯ノ沢は昔、本村の管轄であった。湯ノ沢の松は国道筋、バイパスの左手、もとの湯ノ沢分校の前にあった。樹齢300年の傘松である。昔この松が一時、葉が枯れ落ちたため村の衆は、なぜだろうと話あったところへ、上方から「湯ノ沢村、お松」宛に手紙が届いたので村の衆は、湯ノ沢で伊勢参りに行った人はいないし誰だろうと話合っていたら俄に、今まで枯れかかっていた松の葉が段々と青くなり、もと通りのみどりの松にかえったので、この松は上方参りに行ったのだといい伝えられ現在にいたっている。
一方、それと時を同じくして隣の集落、田子内字菅生田には「お玉」宛に、上方から礼状が届いた。菅生田村衆も一同に会し、誰であろうと話題になった。やがて国道筋の佐々木伊三郎屋敷内の畑の隅に大きい丸い石が現われたのでこの石は、どこからどうして現われたのであろうかと不思議に思っておったところ、隣の湯ノ沢の「お松」の話を聞いたので「菅生田のお玉の上方参りの石であった」といい伝えに残っている。そこで当時の伊三郎翁は大豪力で現在の場所に投げたといわれており、いまもそのままところにあるという。

田子内と椿

田子内に鎮座する天神社の御神体は、椿の木で彫刻されているので、椿を粗末にしてはならないといわれている。田子内の区域には椿がなく、下田や蛭川その他の地域には自生している。また一説では道真公が「梅の木」を愛てのあまり、椿を嫌ったともいう。天神様の御紋は梅鉢である。東成瀬小学校の校章も梅鉢に東の字が入っている。

皿かぞえの桂の木

昔、平良部落の下(西)のはずれの桂の木の下に、夜になるとザラザラと皿を数えるような音がして、村人は皿数えと呼んでいました。子供は夜には絶対に桂の木の前を通りませんでした。今でも、太い桂の木が残っていますが、子供たちは、昔のようには恐がらなくなりました。
(平良・佐藤ナツ氏 七十二才)

蛭川の傘松

古い時代、亀爺という人が盆栽の松を惜しみながらも、道端に植えた松が、後に知られた「蛭川の傘松」であったが、近年道路拡幅工事のため伐られたことは、かえすがえすも残念なことである。

桶清水

田子内字桶清水のことで、近くに「館」があり、そのころ、兵士たちが桶を持参してこの地に水を汲みに来たのでこの名がある。

夜泣き石

地域では「去りこ石」と呼んでいる。肴沢から岩井川へ行く左手にあり、俗称「桂へぐり」の東の山根にある大きな岩石で昔は夜な夜なその石の下で乳のみ児の泣き声がしたという。夜泣きをする子ど もの母親は、この夜泣き石に願を掛ければ、夜泣きがやむと信じ参拝したものだったという。昔はいつも御初穂があがっていた。
「去りこ石」といわれる理由は、ここ(正式地名は岩井川字空堀)の巨大な岩石が、何百年前の地震かは不明であるが山麓の道路に落ちた。当時の人々が通るのに大変邪魔になっていたが、どうすることもできなかった。たまたま諸国巡行の折に通りかかった弘法大師が経文を唱え「しゃれ」と喝を入れたところ、巨大な立て岩石は転んで現在の位置へおさまり、横たえて猫の背のようになった。

猿橋の由来

肴沢に猿橋といって景色のよいところがある。昔は猿がこの川を越すとき、木に登って手をつなぎあい、ぶらんぶらんと振ってその反動で向岸にジャンプして越えたので「猿橋」と名付けたといわれている。

猿橋の渕と鮭の大助

字肴沢と猿橋のとの間、成瀬川の両岸の岸壁が押し迫ったところに大昔は木橋、その後らんかん橋、吊り橋があった。現在は永久橋となっている。橋の北たもとに枝ぶりのいい老松が垂れ下り、橋下の渕にのぞんでおり、本村の名勝地であった。(現在は枯れている)昔、この渕に「鮭の大助」という主がいた。ある人が渕の主といわれる「鮭の大助」を釣ろうとし、工夫をこらしてやっと釣りあげたものの、 手では持てないので、扉に乗せてかついだら、大助の尻尾は扉からはみ出したという。その大助が崇っていうには「俺を釣り上げたからには、ただではおかない、村中を不治の病いにしてやる、思い知れ」とすごまれた。村人は恐れおののいて「水神として祀るからゆるしてくれ」とたのんで村中に小さいお堂を建立し、大助を釣りあげた大鈎をお堂の下に埋めたという。ここの集落に小さな祠があり「水神様」と呼び、正月の初詣には必ず立寄って参拝する。

小次郎沼の伝説

応永二一年(一四一四)鎌倉北條時行の遺臣、高階大次郎通治が一族郎党70余人と共に出羽の飛島より来たりて本村入道森の馬場に住む。同二四年(一四一七)の春、椿台に移住するまで前後四年、この地にあり。そのころのことなり。大次郎の弟、小次郎通吉、釣を好み「沼の又」の沼に日々行きて釣糸を垂る。しかも獲るところの岩魚の数毎日相同じ。小次郎の妻あやしみて或る日、ひそかに夫のあとに従い行き、沼のほとりなる木陰に身を寄せ見ありしに、夫小次郎は妙齢の美女とともに筏に乗りて釣りするさま、いかにも睦ましげなり。妻これを見るなり嫉妬の情むらむらと起こり、思はず大声をあげて怒号す。小次郎それと気づき美女と相抱いて湖中に投じ、再び浮かばず。里人「これ沼の主ならん」といえり。仍而この沼を尓来「小次郎沼」と名付けたり。その後、天正のころ(一五七三~一五九一)増田城主土肥次郎、家来をしてこの沼の水を沢へ切り落し、岩魚を捕えんとせしに、水と共に流れくだる魚、悉く小蛇と化せりとなん。 (因みに小次郎沼は、現在水はなく、曽っての湖底や周囲は樹木や雑草が茂り、昔の面影もない。数年前、沼の縁に当る場所が県道水沢・十文字線(現国道)の路線として掘さくされた時、路傍の断面に泥炭層が露出しており昔湖底だったことがうなずかれる)

八幡太郎、駒つなぎの桧

目通り五尋(一尋は大人が両手を広げた長さをいう)もある老樹で樹齢干年はくだらないといわれた。田圃の中に一〇坪余りの宮地が塚状になっているところに生えていた。村人は昔から「八幡太郎駒つなぎの桧」と称し、神木として崇め守ってきた。その周辺を「桧下」とか「八幡下」といって字名になっている。大昔はその付近に墓地でもあったのか、副葬品らしいものと、田の中から「板碑」が一基出土した。碑高は三尺ほどの安山岩の自然石で、上部の梵字は「釈迦三尊」といわれる。刻字は磨滅して読めないが「孝子」の文字は判読できた。その桧は古木のため幹が空洞になってムク鳥が巣をかけていたが、終戦の年の台風で倒れてしまった。相生の山桜も同時に倒れ枯れてしまった。何百年来、旅人の目標としてなつかしみ親しまれた名木も、このようにあっけなく倒れてしまったことは惜しい限りである。八幡太郎が礼銭芦毛の駒をつないだという故事により、手倉では芦毛の馬を飼わないならわしがあった。駒つなぎの桧は御番所の近くで、東の山腹には菊地家の氏神(後に村社となった)「八幡神社」がある。

手倉

慶長7年(1602)佐竹義宣公が秋田へ遷封されるや、要所要所に関所および御番所を設けた。
この地に御番所が置かれたのは、手倉が中山を境とし仙台領と接しているためであり、 御堺に御番所が設置されたのである。
設置の年代については、当地に文献が見あたらないが羽陰史略、1681年(天和元 年)の条に「領内15ケ所に設置された。」とある。
創設当時は手倉上村にあった。ご番人十右衛門、病死後、後役に菅原四郎左衛門が仰せつけられるに及んで番舎を自宅前(久保)に新しく普請し、そこで数代勤め、明治2年(1869)まで続いた。
なお、昭和7年村道が県道として改修の際、御番所跡が道路敷地となり、番舎、御札場、御門跡もいまは昔の面影もない。
昼間は関門を開き、夜間はこれを閉じ、旅人の出切手、宿泊帳携帯の有無などを調べた。もし、無届けで通るものがあれば関所破りとして斬罪に処された。

弁慶の唐戸石

別には「力石」ともいう。昔、弁慶が当地へ廻遊中、高畑山から大長嶺へ蹴飛ばした石といわれている。大きさは五、六尺から七尺ぐらいで、周囲に加工した跡の全々ないところに面白さがある。暫くして十郎兵エ、権左エ門の二人が「石の中にあるといわれる鎧」を取り出そうとタガネを入れた。ところが一天俄かにかき曇り、遂に割ることができないで帰宅した。その後、二人は発熱し遂に聾になった、なお、七月七日は中の「鎧」の虫干しをするという。

五郎兵衛家の水神様

田子内集落の草分けに五左エ門という石切りを職業にしている人がいて、大長根の山の上の大石に矢を打ち込んで割ろうとしたら、その石が突然動き出し「ゴロゴロ五左エ門、割れるか五左エ門」という声がしたので、びっくりして逃げ帰ったとのことで、今でもその石に矢のあとがついたまま残っているといわれている。その五左エ門が仙台から田子内に来て住みついた頃は、田子内にたった三軒の家しかなく、その後に五左エ門の家から今の五郎兵衛の家が分家になったそうで、たしか四軒か五軒目にできた家とのこと。その後にガッケの水神様が祀られ、定かではないが今から凡そ360~70年以上前のことという。
昔は道路わき近くに祠と休み場所があり、道行く人たちが水を飲みに寄っては休んでいったとのことである。内神様のある家では四足二足をたべられないといって肉類(鳥獣)は絶対に食べなかったという。ところが肉をたべた人たちがその神域の休み場をよごしたりして困るので、上ミの方の現在の場所に祀ったとのことである。その石垣の下から今も昔と変わらずコンコンと清水が湧き出ている。水道等のなかった当時は、村人たちが水汲みでにぎわい、雨降りともなると他の水は濁って飲まれなかったがここの水はにごることがなかった。それ故に清水をわれ先に押合って汲んだといわれている。ある時、村内の氏神を一カ所に合併して祀ることに相談が決り、その家にも同意するようにすすめられたが、先々代のおじいさんが自分の家の内神様だからと合併しないで現在に至っているという。
大昔は、清水のすぐそばに大きな池があり、鯉を沢山飼っていた。ある時、いたずらにその鯉を盗んで夜、裏のガッケ山でみんなでたべたら、その人たちはその後に、いつの間にか生活に困り遂にどこかへ働きにいかなければならなくなり、働きに行ったとの昔話も残っている。
この内神様は「秋葉様」という「火の神様」と「竜神様」がオシズ様として祀られている。オシズ様は大変タバコが嫌いとのことで、昔、この近くでタバコ栽培をしたこともあったが、近所に病人が出たり、あまりよいことがなかったのでそれ以来、一切タバコは植えなくなったとの言い伝えがある。
この水神様は今でも水飲み場であり、また憩いの場でもあり、あるいは果物を冷やしたり、野菜を洗ったり、飲物を冷やしたりして村人たちは、とても大事にしてくれている。祭日は毎年旧暦の四月十五日。(佐々木キヨノ 年輪より 田子内住)
*秋葉山は静岡県周智郡春野町にある。天竜川の東方にある赤石山系に属する山である。山上近くにある秋葉寺内に祀られている三尺坊は「火防鎮護の神」として庶民の厚い信仰を受けている。(日本石仏事典より)

真内渕太郎

東成瀬小学校のうしろにある渕で、以前は小学校の水泳場であった。ここに真内渕太郎という河童の主がおった。ある時北方(地名)の徳十郎が馬を洗いに川へいったところ、馬の尾に河童がつかまって来て、徳十郎の家の馬洗い桶の下に隠れておったが、そのうち見つかってしまった。河童が放免される時、真人(現増田町)より上流に上ってくることを禁じられた。その後は河童にとられること、つまり「川流れ」(溺死)がなくなったという。

蛭川

昔、徳川の役人(秋田の役人と思うが)が、ここを通った時、ちょうど昼だったので「昼川」と名付けられたが、明治九年(一八七六)の地租改正の時、あやまって「蛭川」としたという。他町村で「昼川」の地名がある。

つるべ井戸と田子内

天神社の祭神菅原道真公は、藤原時平の「ざん言」(事実をいつわって悪くいう)により、九州太宰府に配流されたが、時平を呪い雷神となって時平を襲った。時平は井戸に隠れて難を避けた。道真公の無念を偲び、田子内では昔から井戸を掘らなかったという。(現在は井戸も水道もある)

首もげ地蔵

手倉越えは、罪人を秋田から岩手に追放する道にも使われた。
首もげ地蔵は処刑場のそばにあって、ある罪人が首を切られるときに地蔵様の前に座して念仏を唱えたら、役人が切ったのは地蔵様の首であった。
また、腰縄を解いてから役人が罪人に向かって、ひとり言のように土手の下を指さし「この下に川がある。そこの坂を下って左を見て行くと、一本橋がある。それを渡ると岩井川村に出る。田子内を通って増田まで四里半ある。貴様はそのような道など逃げてはならぬ。仙台へ行けよ」と言って、御番所へ引き返し、お茶を飲んだり、酒をくみ交わしていると、川向こうの山道を先程の追放者がすげ笠をとって、御番所の方へ手をあわせ、幾度も頭を下げ、腰をかがめながら後を振り返り増田の方へ急ぎ行ったという。

 オワリ沼

この沼のそばに昔、「オワリ」という女の人が住んでいたので、「オワリ沼」という。沼の中に鉄製品を投げ入れると、底の方で、ドーンドーンという音が聞こえると言われている。

大柳沼

大柳近くの山の上に「上沼」と「下沼」があり、その「上沼」の伝説に、このぬまの主は大きなベゴ(牛)である。誰かが沼に来ていたずらをすると、煙がたちのぼり、それと共にベゴが出て来て、その人を驚かすという。

どんこ坂

どん子は今より百数十年前、本村椿台の六郎兵ェに生まれた天性の麗人で「椿台小町」の名があり、謡に唄われ遠近にもその名を知られた。村祭りの日には他村からも若者が集まってきた。されば、縁談も網の目から手の出るほどであった。「せめて一ト夜の仮寝にも」とひそかに胸を焦がす若者も数多かった。両親も愛娘のために良き縁談をと思う心は世間並み以上であったことも想像されるが、山村育ちのこととて帯に短く、たすきに長しのたとえ、両親はかれこれと娘を片づけないうちに、大切な箱入り娘に虫がついてはと心配のあまり、親類の間柄なる同村菅の台に嫁がせることに決めたのであった。玉のこしにも乗り得べき器量をもちながら、何とて草深き奥の村などに嫁るものぞと、口さがなき村人たちは陰でひそひそと、うわさし合ったのも無理ないこと。いよいよ黄道吉日を選んで輿入れの日ともなれば、村人たちは老いも若きも、どん子の晴れ姿を垣間見んものと、門あたりに人垣をつくった。そしてみな目頭をうるませて惜しみあった。両親もこれまで幾年、蝶よ花よと育ててきたのに、娘の気の進まない縁談を親類への義理で無理に嫁るのだから、いざともなれば、割り切れない心残りもあったであろう。斯くして生きながらの弔いにも似たる輿入れとなったのである。どん子の姿の見えなくなるまで、嫁見の村人たちは、つま立ちして見送るのであった。吐息をしながら各々わが家へと帰っていった。どん子の去ったあとの村は急に灯の消えたような淋しさとなった。草刈る鎌の手を休めて、ぼんやりと物思いに沈む若者も出るといった始末。どん子の夫たるべき人は顔や姿も決して優れた男ではないうえ、教養もなく一見して粗野にみえた。強いていえば家に自給自足の資産がある程度だった。
楽しかるべき新婚も、どん子には弦滅を感ずる日夜の連続でしかなかった。どん子には前から相思の仲の若者が一人おった。村役を勤めている人の息子がその人である。眉目人に優れ村役を勤める父を持つ彼は、いわゆるインテリ層の家庭に育ち、若い女性からは他の若者よりも垢ぬけして見えたことであろう。況んや幼馴みであり年ごろになるとともに親近感が思慕にかわり、恋愛へと進んだのも自然の成り行きであろう。うすうすそのことに気づいた夫は、嫉妬のあまり、始終どん子を疑い、あてこすり、苦しめ、果てには屡々手荒な振るまいがあり、どん子はその苦しみに堪えかねて、実家へ逃げ帰ったのは幾度か。つりあいのとれざるこの縁組は悲劇のほかの何ものでもなかった。
うつろの体は夫のもの、魂は愛人の胸に抱かれる夫婦というものは、世間にないといい得ようか。ある日、山の畑仕事に行った時、夫は執拗にどん子を4さいなみ、果ては狂暴の振まいさえあったので、どん子はとうとう二里の道を里方へ逃げ帰ったのである。問わでもわかる娘の事情、母親は不憫と思ったが、後難を恐れて娘をさとし、無理に婚家へ帰してやった。高いしきいを踏むこと幾度か、心なしか影の薄く思わるる娘のいじらしい後姿を見送った母親は、あふれる涙をおさえかね、そして親の一存で嫁った娘をいじらしくも不憫でならなかった。
どん子は泣く泣く婚家へと帰り行くのであった。初夏の微風はやわらかに頬をなで、畑蒔蝉や閑古鳥の啼く声もいとど感傷をそそるのであった。前に三歩、後ろに二歩と歩みは遅々、思いは乱れてあふるるは涙と吐息。歩んではたたずみ、たたずんでは歩み、ようよう暮方近く草の台へたどり着いた。谷川に架けたおさご橋に足をかけ、ふと水にうつった自分の姿を見入ったどん子の胸中はいかばかりか。このおさご橋を渡り、あの坂道を登れば再びあのいん惨な生活が続くかと思えば足は重く、胸も塞がる思いである。
今にも激怒した夫はヤブ陰から突如あらわれ、髪をつかんで引き倒し、ぶち、ふみ、なぐるの狂暴を振るうのではあるまいかと思うと身の毛がよだち、ふるえる思いである。お不動様の小さなお堂が木の間から見える。足は思わずフラフラと杉林の中へ誘われるように向く。枯れ枝をふみ折る自分の足音をはばかるように、人目の届かぬ、とある木の根元に腰をおろした。いろいろ思案に沈むうちに初夏の永い日も暮れて夜気がひしひしと身にせまる。狂暴な夫の顔と愛人の顔が交々眼の底に去来する。「ああ佳人は遂に薄命であった」どん子は、おもむろに横櫛をとって、おくれ毛をなでながら眼をつぶった。そして静かにしごきを解いて、身づくろいを正してから、しごきを木の枝にかけた。両親、兄弟、幼友達等々の顔が走馬燈のように、まぶたに浮かんでくる。木の間をもるる三日月の影はすごいまで青かった。どん子は淋しく、かすかにえくぼをつくった。思えば夢多い、そして短い命であった。それから数刻の後には冷たいむくろとなった。斯くして悲恋の清算を遂げたのである。母となる日もなきままに思いつめたる若い女性の一念。谷川のせせらぎの音は昔のまま、うらむが如く、咽ぶが如く月移り、年経つこと一百余年。年々歳々粟蒔くころともなれば、畑蒔蝉、閑古鳥、時鳥の声にも今の里人の哀傷をそそりつつある。

*これは古老から聞いた話であり、更に六郎兵ェの隣家、長九郎のタン嫗さんから聞いたものである。ドン子は今から、六、七代昔の人である。伝説の範疇に入   らないと思うが、ついでに書き添えておく。当時はドン子節というのが遠近に流行ったものだったというが、今は歌詞も節も残っていない。(菊地慶治)

おいち

桧山台の長右エ門の娘に「おいち」という娘がおった。秋祈祷に廻ってきた八面(現湯沢市)の法院様が、春までそこに泊まっていて、おいちに手習いや絵を教えた。
当時の女性として絵をかくなどは珍しかった。婿もとらず嫁にもならないうちに、仙台領岩谷堂から廻って来た「からくりまし」に、惚れてかけおちした。夫は木挽きとなり早坂(現湯沢市)に落ち着き、おいちもそこでなくなった。子どもはなかったという。
蛭川の高橋久治宅で「おいち」の作という、ご祝儀用に使うめでたい図柄の六曲一双の屏風二双を所蔵している。そのほか、絵や習作模写などどこかに残っているものと思われる。

杉の又の神杉(姥杉)

昔、桧山台の奥地、北の俣の内、杉の又に大杉あり。里人呼んで神木となす。仙台の殿様これを伝え聞き、船の帆柱にせんと思いたち、数多の人足をさし向けてこれを伐り出さしめんとす。杉の生えたる箇所は峰をへだてて出羽、奥州の境に近し。人足等、斧を振って杉の根元を切らんとするに、周り数尋に亘る大杉の切口より血流れ出て、あまつさえ昼間切りくずせるところの木端は、夜悉く元に返りて附着し、数日を費やせども伐り倒すこと能わず。
人足の一人いわく「木端は悉く悉くに如かず、然らば附着するとこなく容易に伐り倒し得べし」と。衆、皆手を打って同ず。暫くして数日の後、かろうじて此神木を伐り倒すことを得たり。よって大綱をもってこれを峰に引き上げんとし、数百人力をそろえて引けども、件の巨木微動だもせず。よって更に人数を増し辛うじて一ト坂引き上げ、もう一息というところに至り、先ず一服と一同打ち喜びその場に休息して酒を呑み酔いて踊る。そこを「踊り場」という。しかもこの歓喜の最中に件の帆柱材は、メリメリと大音響をたつると思う間もなく、地響きを打って反転し、あわやという間に多数の人足共は、その下敷きとなり無残な最期を遂げたりとなん。
帆柱のことは神罰を恐れてそれきり沙汰止みとなり、この帆柱材はその踊り場に横たわりしまま、春風秋雨幾百年巨体は朽ち、葉積み土かぶさりて今も土手状をなしているとかや。その親杉のあとには、今も幾本かの曾孫杉が群がり生えているという。

赤滝神社(縁記写)

出羽国雄平二郡の作神、赤滝神社の由来を尋ね奉るに、頃は承応元年(1652)壬辰年出羽城主岩崎兵庫守と申し、僅か二万八千石を領し
栄耀と在します。彼の兵庫守殿一人の娘持たれしに、彼の娘生つき、きりょう人に勝れ、世に稀なる女なり。時に兵庫守殿居館より申さんに、西南は広大な地にして東北は大川居館の麓を廻り、末は男茂野川となる。然るにこの川に栄渕という渕居館の下にありける。彼の渕には昔より大蛇棲みて多年也。兵庫守殿常に娘に教えて曰く「汝娘親のいうことを能く聞け、武士の娘たる者は何事もよく覚ゆべし。若し不覚の者たらば此居館の下なる栄渕の主に呉れてやるぞ」とたわむれに申されける。此姫君幼少の頃より琵琶を好まれ、夜昼となく御けい古なされ給うに、不思議や塀の外に笛の遠音、姫の琵琶に拍子を合わせける。
彼の笛の遠音は次第に近づくより大手の方を見給えば、年の頃28とも覚しき若侍、深編笠を冠り、表門の棟にのぼり笛を持ちて忽然と見え給う。兵庫守殿それを見るより我臣主計之助を呼び「是喃、主計只今大手の方を見れば、年28とおぼしき若侍一人、大手門の棟に上り我娘の琵琶に笛の拍子を合わせて吹かれしに、何方の御仁にてや候わん。此方へ入らせよ」との仰せなり。主計之助畏り候と彼の侍に此由を斯様しかじかと告ぐれば、若侍は姫と共に奥の座敷に入らせ給う。
その日最早暮ぬれば彼の若侍は何処ともなく立ち去りにけり。然るに爰に同国川連に小野寺加津羅之輔義一と申し、僅か一万五千石を領し居住しけるに、彼の義一が先祖を尋ぬるに出羽の住人、橘右近守最上義光公の臣に存します。岩崎兵庫守の姫君今は16の年となりければ、義一殿と縁談ととのい黄道吉日を選びて日取りをなされたり。さてもその日となりぬれば、附侍には遠藤逸八郎、川中佐中其外大勢を具し、御籠のお方には鈴木多中その外、小姓、脇御供女郎4~5人を伴いて美々しく出でにけり。
さるに此の日、晴天俄に曇り魔風吹き来たり震動電光雷鳴物凄く、雨しきりに降り如何にも危うき次第也。なれ共、御供の面々御籠大事と守れども魔風雷鳴に恐れ、如何にせんとお籠のかたわらに打伏し居たりけるに、何かは知らずお籠のほとりにて怪しき物音して淋しさ、恐ろしさ、たとうる物なく、御供の衆皆散りぢりになりけり。しばらくありて立寄りみれば、あな不思議やお籠の中なる姫君は何者かにさらわれ、行方知れずになりにけるこそ悲しけれ。
さてもその後、兵庫守殿我が臣主計之助に向い申す様「此喃、主計我姫の行方未だ知れざるを誰ありて尋ねんとする者なし。如何にせん」と問えば主計之助尤もの至り畏り候とて草々仕度を調え、先づ館山に登りて陽気うかがい見るに彼の栄渕には霧かかり川の鳴瀬も常とは変わりて聞こゆるに、立寄りて聞けば何かは人間のもの言う音なるより、主計之助思うよう川の底にてものいういわれなし。これわが心の迷いなるか。はたまた狐狸の仕業にやと心を鎮めて案じけるが、ややありて腰なる山刀を以って川岸の柴を切り払いてそれを見んとしたけるに、不思議や大淵の底には四角四面の座敷あり。その真中に姫君様は二十尋にも余るかと思わるる大蛇のため、三重に巻かれ忽然としておあしける。大蛇は姫の膝に頭をもたせ紅の舌を吐きて眠れり。主計これを見るなりアッと魂消え、逃げんとするに体の自由きかず。ややありて主計之助姫君に向いて申すよう「これ喃、姫君様われここに来たりしは余の儀に非ず、姫君の行方をさぐらんがためなり。国なる殿様御母上様のお歎げき見るに忍びず、早々本国へお戻り遊ばせるよう」と申し上げるに、姫君やがて口をひらき、「珍しや主計、汝のいうこと尤もなり。しかしながら妾は人にして人に非ず、変化の身にて古里娑婆世界に帰りて父母にあうことも叶わじ、偽りと思はばそれ斯くの如し」と見る間に奥の一ト間に入り、やがて現れたるは姫の化身二十尋にも余る白蛇。主計驚きのあまり声さえい出ず、ややありて主計言葉をあらためて申すよう「これ喃、姫君様斯くなる上は詮もなし、何卒せめてもう一度、元の姿となりて、この主計に御遺言なりと給へかし」と言えば、白蛇は再び元の姿となりて現れ「これ主計、今は何をか申さん、我再び娑婆世界へ帰ることも叶わじ、これなる十二単衣の片袖と櫛、こうがい、この三つの品をばかたみとしてつかわすほどに、古里に持ち帰り父母に届けよ、わが三熱の苦しみを消さんがため館の下なる栄渕の岩窟の上に水神の祠をば建て、此の世のあらん限り毎月朔日、15日、28日には祈祷をなし給えや。また義一殿には縁合の御慈悲をもって、いずくの名に候とも菩提のため一寺を建て牌子を納め、普門品を読誦(声を出して唱える)し給へ、頼母々々」とばかりに涙ながらに申されける。
主計之助、夢より覚めたる如くかたみの品をもて渕より浮かび上り、主君ご夫妻へ斯様しかじかと告げ奉るに兵庫守共々涙にかきくれ給うこともことわりなれ。やがて兵庫守殿には娑婆の名「能恵姫」が三熱の苦しみを消さんがため、居館の頂上に一宇の堂を建て「栄渕水神」として崇め奉る。また義一殿も前世の因果とあきらめ給い、川連村に姫が菩提のため一寺を建立なされけり。寺の名を我宗山滝泉寺と申し、姫の法名を「天顔院白龍妙容大師」と申し奉る。
命日は霜月(11月)初丑の日にて水神社では7月16日、田楽舞にて御祭礼を行い奉る。かたみの品々と姫の牌子は滝泉寺に納め奉るとなん。しかるに爰に隣村大倉村に金山ありてたえずギラを流さるるため栄渕の主は堪え難く、棲家を尋ねて稲庭川をさかのぼり、小安の不動滝に至りしに此処には以前より主あれば棲むこと叶はず、引き返して水清き成瀬川をさかのぼりて仁郷沢赤滝の渕に辿り着き、此処を永住の棲家と定め能恵姫とともに、渕の底なる岩屋の奥深く鎮まり給う。
その後里人、滝の上に一宇の堂を建て、赤滝大明神と崇め奉る。六月朔日、九月「中の節句」を祭礼日と定め給う。
(因みに、かんばつの年は遠近より雨乞として参詣する者多く、霊験殊のほかあらたかなりという。明治の中葉までの別当は桧山台の八兵ェなりしが、今は人かわれり。主は鉄を忌むといれり。また参詣者祈願の時、ひねり初穂やお供えの餅を渕へ投ずるに、御受納の時は沈み、御受納なきときは浮かびて流れると、昔は信ぜられたりという。また、能恵姫の不慮の遭難について異説もあれど、神威を冒とくするおそれあれば、ここには省くこととせり。)
昭和14、15年(1939~1940)までは滝や渕に老木が生えふさがりありしが、営林署にて事業所開設後、樹木の大方は伐採せられ、神秘幽玄のベールがはずされ、里人から惜しまれている。
ここの水は褐鉄鉱を含む水のため石や岩が赤褐色を帯び、谷川も滝も渕も赤色に見えるため「赤川・赤滝」の名がある。
近年、「成瀬ダム」の着工が始まり、やがては赤滝もダムの底に沈む・・・・・・・・。