仙北街道

ルートで見る仙北道

 
 

歴史で見る仙北道

仙北への道

水沢の町から、遙か西に望む奥羽山脈を越えて、秋田の仙北地方(横手方面)へ行く道を、江戸時代に「仙北街道」(せんぼくみち)とよんでいました。
これに対して秋田側では、伊達領に通じる道であるから、「せんだい道」「みずさわ道」などとよんでいました。
ほかにも地元では、「あきた街道」秋田、手倉村に出る道だから、「手倉越え」、中山峠(地図では柏峠1,018メートル)を越える道なので「中山越え」などともよんでいました。一般に、水沢から秋田東成瀬村までの道のりを示し、特に胆沢町若柳下嵐江から秋田手倉までの道をさして「仙北街道」とよんでいるのが実情です。

名称と道筋

延暦21年(802)坂上田村麿呂が胆沢城を築城し、雄勝城と結ぶ最短距離として開かれたのが手倉越である。最初は太平洋岸日本海岸を結ぶ要路としての性格が濃厚であったが、陸奥・出羽が平定すると自然に経済・文化・産業等の道として賑わった。
藩政時代には増田-田子内-手倉-柏峠-下嵐江-水沢に通ずるので手倉越、あるいは中山道・せんだい道・せんぼく道等と呼ばれ、はっきりした名称がないので、最も多く使われている手倉街道を本報告ではとることにした。
菅江真澄の「雪の出羽路雄勝郡」に、手倉山とて、いといと高き山あり、そこを手倉越へという「くにののり犯したるもの、この峠を越して追いやらうことあり」その大山をこゆれば、みちのおく胆沢郡下嵐江という処に出るとなむ。とあるが、いといと高き山または大山をこゆればとあるのは秋田・岩手県境の柏峠(中山峠ともいう。1,018m、眺望のきくところ)をいう。
手倉越の道筋は、手倉-首もげ地蔵-狼沢口-まが坂-やせ長根-中野がしら-弘法の祠-一ぱい清水-十里峠(手倉より小里十里あるのでこの名があり、小道六里は大道一里)-岩の目(岩の目沢)(藩境塚あり、手倉より一里十里)-じょのくら-ひき沼道(伝説あり)五本ぶな-柏峠(以下岩手県につき略)となって下嵐江まで24キロ即ち六里の道のりである。
県庁文書によると天和元年(1681)五里弐拾壱丁拾四間(手倉-下嵐江)手倉村より境目幡松峠まで山坂難所牛馬不通仙台領下嵐江村へ出る、とある。
この難所は冬季でも大寒の四、五日を除いては往来したと古文書にあり、手倉の住民は背負子となり、又案内役として諸人の往復に尽くした。

天保八年(1837)

二月仙台藩御山師大内幸蔵(前沢の人)が秋田をめぐり手倉越した記録の一部に次のことが記されている。

二月 十日 秋田領鉱山めぐり横手に泊まる。
同 十一日 朝出発、茶店が二、三軒あるばかりの十文字を経て増田本町山中吉右衛門に泊まる。
同 十二日 増田出発、朝より大吹雪、増田より手倉沢まで四里半あり、関の口、平賀、湯の沢、菅生田、滝の沢、田子内、広川、岩井川を通り、夜手倉口助右衛門に泊まる。同宿五、六十人で大取込、水沢、岩谷堂、その外下伊沢の人多し。
水沢大町伊勢谷彦右衛門が増田の亀田表へ廻米方にて出張のかえりに出会う。
同 十三日 手倉出発、下嵐江まで六里あり、下嵐江に越える人二十五、六人、中山峠の十里と申すところにて大吹雪となり、引き返し、椿台の長右衛門にて泊まる。
同 十四日 大嵐にて滞留。
同 十五日 未明出発、二十五、六人一団となり、雪をおかして暮半頃下嵐江下りてお礼屋守組頭十太郎へ泊まる。

すなわち、横手から下嵐江まで前後六日程度要したわけで如何に手倉越が難所であったかを表す貴重な記録であり、それでも越えなければならない秋田領、仙台領間の交通の要路であったわけである。文政、天保頃の「国郡古図撰集」に手倉が「言語道断」村の地名になっているのはどうしたわけであろう。手倉越が言語道断越であろうか。
文保元年(1317)菅原左太夫利房、菊池弥右エ門、佐々木大蔵、柴田多門等が奥州金成村(現宮城県金成町)から手倉越を経て落ちてきてこの地を開いたと古文書にあるが、菅原家には武田信玄からの感状が保存されてあり、藤原家の遺臣であったがその後、武田家に仕えたものと思われる。菅原家などが手倉に土着するに当たって「久保河原の山伏屋布を打ち直し、そこを屋布とす」の古文書からしても修験道の山伏がいたし、また、寛浄院の寺跡などから土民が居住していたと考えられる。現在は七十余戸の集落であるが、手倉川原村と称し、御番所が設けられた江戸時代は、九十戸以上もあり宿場であった。
御番所役人は設立当時は横手戸村家中の給人二人六十日交代で御番人をつとめ、後手倉の十右エ門仰せ付かって勤めたが病死後は四郎左エ門(菅原家の後裔)が引き継いだ。御番所の役目は往来の通行人の取り調べ、囚人追放の立ち会い藩士の宿であった。

特に重罪の囚人追放の場合は藩からの護送の藩士達と同道し御境目十里峠まで連れ行き、そこで唐傘をさしかけ御条目(判決文)を読み聞かせ「再び領内へ立ち戻るべからず」と厳重に申し渡した上、囚人の腰縄を解いて追放したものだという。悪質で脱走のおそれのある者は、境目まで村人も監視にあたった。ひまだれ(迷惑料)として御物成の内九石一斗を免除されたが、村にとっては雀の涙ほどのものであったろう。

囚人の護送経路・・・ 久保田 → 牛島(泊)→ 境(昼食)→ 刈和野(泊)→
花立(昼食) → 六郷(泊)→ 横手(昼食)→ 増田(泊)→ 手倉(泊)

久保田より四泊で昼頃手倉について護送の藩士は、一泊或いは二泊の上逆順で久保田へ帰った。囚人は夕食後月代や顔を剃って髪を結び、風呂をつかわせたとある。御国払いになる罪とは有夫姦通、ばくち、常習悪質者、窃盗、放火、肝煎役の公課横領等であり斬首、はりつけの罪人に次ぐ罪人であった。

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