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『文書と絵図に学ぶふる里の歩み』展が終了しました
秋田県公文書館と東成瀬村教育委員会が連携して開催した『文書と絵図に学ぶふる里の歩み』展は、盛況のうちに終了しました。沢山の方にお越しいただき、ありがとうございました!
期間中のイベント、秋田県公文書館 畑中康博 氏を迎えた展示解説の様子をご紹介します。
熱心に受講中。
ミッション:絵図の中から番所を探せ!!ミッション:どれが原本かわかるかな?
絵図は原本と写しがあります。大人も興味津々。展示されていた古文書の解説。これまた皆さん熱心に受講していただきました。
畑中氏は、「自分の住んでいる場所を知り、 村に生きる‘’誇り‘’をより強く持ってもらいたい!」と語ります。
情熱のある解説でアツイ一日となりました。
『文書と絵図に学ぶふる里の歩み』展 開催中
秋田県公文書館と東成瀬村教育委員会が連携して開催中の『文書と絵図に学ぶふる里の歩み』展から、興味深い資料を紹介します。
江戸時代には、農民は休みなく働かされながら収穫量の6割も納めさせられる重い年貢(ねんぐ)に苦しめられていたように教科書で習いましたが、東成瀬村に遺る文書からは農民の強い連帯感で生活改善(休日)要求と、為政者の「育児・児童手当の支給:少子化阻止=将来の労働力確保」策を見ることができます。
■雄勝郡手倉河原村休日定日書上候帳 明和8年(1771)
(おがちぐん てぐらかわらむら きゅうじつさだめび かきあげそうろうちょう)
農民は牛馬の如く休みなしに働かされていた印象がありますが、手倉川原村(てぐらかわらむら)では正月は元旦から4日までと9日、小正月は16日から20日まで、2月と3月は7日働いて1日休み、3月から田植えで5日働き1日休み、田の神祝い(祭り)で3日休み、田植えの後から7月前までは7日働いて1日休み、7月14日から17日まで盆休み、稲刈り前は7日働いて1日休み、稲刈りより稲取り仕舞いまで5日働き1日休みなどと、農民サイドで年間の休日を決めて全戸主が押印して役人に届け出ており、現在のサラリーマンの生活とあまり変わりません。
■雄勝郡手倉河原村懐妊有無月々書上帳 天保6年(1835) (おがちぐん てぐらかわらむら かいにんうむ つきづきかきあげちょう)
懐妊届、出生届、死亡届などを肝煎り(きもいり)、長百姓(おとなびゃくしょう)が御役屋に報告することになっており、特に懐妊の場合は毎月調査し、それを2、3か月分まとめて報告していたことがわかる控えです。
■雄勝郡手倉河原村御撫育拝領者書上帳 同 御撫育拝領後病死之者書上帳 右二冊二而指上申候 天保4年(1833)
(おがちぐん てぐらかわらむら ごぶいく はいりょうしゃ かきあげちょう どう ごぶいく
はいりょうご びょうしのもの かきあげちょう みぎ にさつにして さしあげもうしそうろう)
凶作で困窮した農村では「間引き」や「捨て子」をする者があとを絶たなかったため、秋田藩では第9代藩主佐竹義和(よしまさ)が乳幼児の撫育(ぶいく:養育)制度を創始し、第10代藩主義厚(よしひろ)が撫育令を出しました。生活困窮者には、出生から3か年の間、撫育料として生年に米3俵3貫文、2歳時に米2俵、3歳時に米1俵を支給することを決めたのを受けて、手当拝領願いを手倉河原村肝煎と長百姓から奉行所に提出した控えと、出産して撫育手当を受領しながらも乳幼児が病死したことを報告した控えが遺されていました。現在の育児・児童手当に相当するものが江戸時代の秋田で考え出されていたことにおどろきです。